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工房集の2011カレンダー展 開催中

アートプラネット 12月11日~23日

今日は川口からマイクロバスで『工房集』の仲間たちが会場に来ました。

shuu_aya-20101217.jpgあやちゃんです。
自作の前でピース!







shuu_2010_aya_1.jpg shuu_2010_aya_2.jpg
shuu_2010_aya.jpg








こんなにいっぱい、頑張って描いてくれました。

今回のヒコーキシリーズは、メチャ明るくて、かわいい作品です。
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bunpei_in-8.jpgyamazaki-L-a.jpg




  






『写実的に仕事をすることは生命と人間性と大地への愛を補ってくれる。

抽象的に仕事をすることは、個性を開放し、知覚を鋭くしてくれるように思われる。

したがって、人生を観察するとき、人を深く感動させるものはその全体であり、

内的な意図なのである。

構成分子はそれぞれの位置を占め、細部は統一を意味する。』

  バーバラ・ヘップワースの言葉 ハーバート・リード著 滝口修造訳 「芸術の意味」 みすず書房刊より



普段から、具象、抽象を区別したり、あまり意識しないで作品をみています。

心動かされる作品は、具象は抽象性を、抽象は具象性を感じさせます。

自分にとって大切な視点は、作品そのものが持つ空間性であったり、

知性、理性、感性の調和が心地よかったり、

なにから来るのかわからないような不思議さであったり、です。

作品が置かれている空間との関係性もそれら全てに関わっています。
bunpei_in-8.jpgyamazaki-L-a.jpgc5e9f147.jpegHM_L-b.jpg











みる、見る、観る、視る、診る、看る・・・

一言に「みる」といっても、いろいろある。

一般的に彫刻をみるといった場合は前者の三つの言葉であろう。

画像の作者は、左から松田文平、山﨑隆、冨長敦也、堀内正和。

表現はさまざまだが、美術での彫刻という領域は同じである。

今日は、今月25日まで弊社ギャラリーで開催している

松田展の作品
(画像左端の作品)について話してみたい。


『彫刻は素描に基礎をおく他のどの芸術よりも八倍も偉大である。
なぜなら彫刻は八つの眺めがあり、しかもその八つがすべて同様に
美しいはずだからである。
絵画は木や人やその他の物体が泉に映った映像にすぎない。
絵画と彫刻との間の相違は、陰影とその陰影を投げる物体との
相違ほど大きなものである。』   ベンヴェヌート・チャルリーニ 16世紀の美学者の言葉

これに対し、レオナルド・ダ・ヴィンチは、絵画の方がより知的である
という理由で彫刻よりも優れていると考えた。

また、ミケランジェロが同じ問題についてたずねられたとき、
彼は一流の聡明で直截な論法で、
同じ目的をもったものはおのずから同じものおであり、
したがって判断の正しさと、仕事の厳しさによって生まれる相違を除いては
絵画と彫刻との間には何の相違もありえない、といった。

その時代ばかりではなく今日にいたるまで、絵画と彫刻の目的は同じものだというミケランジェロの仮定に挑戦するものはいなかったであろう。しかし、今日われわれはそれぞれ異なった芸術がもっている目的に、かなり明確な区別をつけるばかりでなく、たとえば彫刻という一部門の芸術のうちにさえ、芸術家たちの異なった意図が存在する可能性を認めている。科学と同様に芸術がまったくはなればなれの活動に分裂してゆくのが近代の特徴のひとつである。すべての芸術が目指しているある一般的な価値はいまなお存在しているかもしれないが、それすら疑わしいことである。16世紀においては芸術家たちは、当時の哲学者たちが真理の概念において一致することができたように、美の概念において一致することができたのである。今日ではそのような基本的な一致は芸術にも哲学にも存在しない。

                 以上、罫線間は『芸術の意味』ハーバート・リード著、滝口修造訳より引用

そのような時代から、彫刻家は、雛形を作り、それを職人が拡大したり、複製する時代が続きます。その、ある意味衰退ともいえる状態に反抗した作家がロダンです。その流れは根本的にはヒューマニズムですが、まったく異なった構成主義という彫刻の型が生れてきます。それは絵画におけるキュービズム(ピカソ、ブラックら)と多少ことなり、幾何学的な形式を使って、完全な緊張を保つような堅固な量塊、面、空間の動的な相互関係を創り出そうと目指しています。また、その意識はその内部までに及んでいきます。このような形体は一般的にいう普通の意味で美しいかどうかは意見が分かれるところでしょうが、同じような形状、要素である建築をみるときには、さほど困難ではないのに、彫刻となると難しくなるようです。

彫刻家の「構成」と建築家の「構造」とは親密な関係が存在している。相違といえば、彫刻家は功利的な目的に一切制限されることなく、その結果、美学的に「純粋」な形態を展開することができるという点である。とリード氏は記しています。


内容が少し、難しくなってきてしまったようで、
かえって「彫刻」を難解なものにしてしまいましたねぇ。

このブログを書いている途中に、松田文平さんの知り合いの庭師のかたが見に来ました。今夏の日照り続きのなかでも仕事をしてきた感じで、赤銅色に日焼けしたその庭師さんに、この作品の感想を求めたところ、
「仕事を通して石は身近かですが、石のもつ全く別な一面をみることができて、幸せです。」
そして「自身、38億年前は石も人もみなマグマで同じだった物として石を捉えています。」とも言っておられました。

その庭師さんのほうが、私よりもはるかに作品をみているし、説得力がありますね。そんな庭師さんに出会えて、今日は、また、幸せです。

bunpei_in-8.jpg




松田文平彫刻展を開催していて

久々に『坐忘録』からの言葉をブログアップします。

『はりつめた心の緊張による過度に鋭い観察。

非日常性。

普通のありふれたものでないという感じ。

神秘性。

普通にはみのがしているものを見きわめること。

自然のなかに超自然をみること。

有限のなかに無限をみること。』

    堀内正和著『坐忘録』P153 より

アーティストの資質としての心構えのようにもとれる一節です。

松田文平さんの作品を見て、また、氏と会話を重ねて、

文平さんが、この一節そのものという感じです。
作品名 『The Full  Emptiness』  (充実した空(くう)

bunpei_in-8.jpg








静謐な空間性をもつ作品です。

この作品と対峙して、坐してみたくなる衝動にかられる。

かつて、米 ヒューストンにある“ロスコ チャペル”を訪ねた時にも

同じような衝動にかられ、ロスコの壁画に包まれ、半時ほど坐さしていただいた。

心を平安が支配し、心身ともに充実したことを思い出す。


今日は、裏話で搬入風景を披露します。

bunpei_in-2.jpg



「あの電話線をクリアするのは大変だなぁ」


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「想定通りにクリア!」


bunpei_in-1.jpg





先ずは、半分を


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吊り手の位置を変えて、リフターと台車に載せて
ぎりぎりまで室内へ



bunpei_in-4.jpg


あとは、人力で引っ張り込む



bunpei_in-5.jpg


作品の対角線にほど近い面を画廊壁面に並行する位置に微調整


bunpei_in-6.jpg


慎重に慎重にセッティング



bunpei_in-7.jpg


上面の水平を底に薄い板をかませて微調整



神経を集中して4時間がかりで、

3300キロの石彫刻は堂々と鎮座した。

ギャラリー空間には、1点だけ。

画廊の空間は静寂そのもの。

作品を鑑賞するというより、静寂な空間を体験するって感じ。

 


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